のんべえ手帖

のんべえの日常を綴った日記

魚の頭からしっぽまで

引っ越しして約一か月たった。
諸事情により、氷温保存庫レマコムを手放すことになり、思い出のお酒と向き合う(開けて飲み干す)機会がやってきた。お酒と引っ越しは相性が悪い。
しかし、なかなか開けられずにいたお酒ばかりだったけど、理由と勢いさえあればなんとかなるものだ。

天の戸美稲は、森谷杜氏のいた頃の最後のお酒なので、2018とかその辺のものだったはず。裏ラベルが輸送のタイミングで剥がれてしまって(雑…)細かいことは分からない…。

後味に残るナッツ感はバランスよくまとまっていて(思い入れと個人的感情も相まって)すごく美味しい。あけて少ししたら、最後の方にお醤油っぽさも感じるし、カルピス味もある。この味にいろんな側面、深みのある感じが、熟成の好きなところ。

家に遊びに来てくれた人に飲んでもらって、好んでくれる人もいたり苦手な人もいたりとさまざまだった。非常に当たり前なのだけど、お酒って嗜好品だな、のひとことに尽きる。

森谷杜氏といえば、「魚の頭からしっぽまで」とおっしゃってたのが好きだった。意味するところは、お酒は「責め、中取り、荒走り」すべて入っている状態で完成品なんだ、というお酒づくりに対する哲学、みたいなことだったと思う。
「中取り」は、絞りはじめと最後の部分を除いたお酒で、魚で言うところの皮や骨も内臓もとったお腹の部分。理屈としては一番安定していてキレイで美味しいところであり、贅沢なものだけど、それ以外の部分に含まれる(渋み苦味だったりいろいろぜんぶ)も入ってこそお酒の美味しさなのだ、という意味のことをおっしゃっていたのだと解釈した。(お魚も内蔵とか尻尾のカリカリしたとこの苦味とか、そういうの全部まるっと味わってこそそのお魚の味なんだよ、ということです)

 

最近、バスケのワールドカップの日本戦をみて、その森谷さんの言葉を思い出したのだった。
ネブラスカ大学でバスケをしているという冨永選手の3ポイントシュートがすごすぎて、彼のハイライトシーンをYouTubeで見まくって、飽き足りず、アメリカの大学のバスケリーグも見た。最初から最後までの垂れ流しの試合もあって、さすがの冨永さんも当たり前だけど外すときがある。

大事なところで外して「あー…!!!」とか手に汗にぎったり、悔しい、彼はもっとすごいのに!と人知れず推しを弁護したり、そんなフラストレーションを感じることもある。しかしだからこそ、決まったときの爽快感も半端ない。連続してシュートを決める波にのってるときの凄さまじさ、みたいなことも余計に楽しめる。それはそれで面白い。

ハイライトだけ見ててもスカッとするし、いいとこ取りだから短時間で満足できるんだけど、そこだけ見てたら、わからんかった世界だな思った次第です。はい。

酸いも甘いも知って、はじめて魚とか酒とかバスケの旨みを感じられるということなのかなと。

 

しかし、もし一番最初に富永さんの失敗を見続けたら、途中で見るのをやめていたかもしれないし、こんなにハマってなかったと思うと、やっぱりハイライトシーン(上澄み)のワクワク感も重要だったりする。

日本酒居酒屋で中取りを飲んだときも、一緒に飲んでいた人にその話をしたら、「でもやっぱり中取り美味しーよ!」と言われて、うむ…となった。

 

いろいろ思うところはありながらも、この冷蔵熟成していた天の戸の美稲は、失敗も成功もぜんぶ包み込む包容力と深みがあり美味しかったです。森谷さん。

おわり。

日本酒2杯